重見の著書「日本少年」について紹介します。

  日本少年(A5判)

  日本少年の内容

 米国滞在中の重見は自分の幼少時代の思い出を基にして、日本における一般的な家庭の子供の生活を描いた「日本少年」を明治22年にニューヘヴン市のセルドン社から出しました(24歳)。この本は好評で、たちまちベストセラーになり、翌年第2版をニューヨークのホールト社が出しました。この本の印税のお陰で、重見は米国での留学を続けることができたと、履歴書には書かれています。

 この本は14章から成っています。当時の今治地方の様子や子供の生活などが詳しく書かれており、大変興味深い本です。
 例えば、当時の今治港の様子は次のように記述されています。
「今治の港は、港としてお粗末なもので、干潮には港の中に浅瀬が現れ、そこで人々は潮干狩りをしている。(中略)いつも数隻の帆船や小舟がちょとした深みで水路になっているところに浮かんでいるのが見られる。」
 

石風呂

 桜井の海岸に弘法大師が造ったという伝説の「石風呂」があります。江戸末期や明治の初め頃は盛んであったことがわかる記述がありました。
 「港の入口から右に少し寄った所に保養所がある。それは石と漆喰で造られた巨大な洞窟で、内部は薪を燃やすことで暖められる。洞窟内部が暖められると、濡れた敷物を持った大勢の病人がここへ入って行く。・・・」 この石風呂も最近入浴者がめっきり減ってしまいました。

当時の小学校の様子
 重見の通っていた学校は明治5年に新設された小学校です。
 重見のクラスは全部で6人、その中には大工の息子、田舎の百姓の息子、薬剤師の息子などがおり、皆まじめで頭がよくて、素直な勤勉家でした。毎月末に行われるテストの成績で座席が決まるので、生徒は一生懸命頑張ったようです。重見は特に競争心旺盛なため夜、先生に個人教授をしてもらっていました。みんな一番になりたくて、試験の前夜などは遅くまで勉強して、夜も更けてくると、瞼は垂れ下がり、音読で声はかすれる。翌朝も早く起こしてもらい、ランプを点けて勉強したとのことです。当時の教育は、教科書の音読が中心で、本が破れほど勉強したと書かれています。

石鎚山の信仰

 今治地方は昔から石鎚山の信仰が盛んな土地ですが、当時の石鎚参拝登山について次のように紹介しています。「私の故郷の街の近くに、石鎚と呼ばれる高い山がある。青年男子が山頂の神社に参拝する習慣がある。この神聖で危険な旅の備えはとても厳しい。男子たちはその前の何ヶ月間の間、冷水で水浴びをし、質素な食事をし、祈りと懺悔に明け暮れる。・・・・」

「日本少年」をお読みください。

「日本少年」はとても面白い本です。今治市立図書館に日本語訳がありますので、一読されることをお勧めします。